地方病との闘い、日本住血吸虫

 

 奇病
 以前の日本に、一部地域の人々を苦しめた病気に日本住血吸虫症、別名片山病と言われる奇病があった。
 河川や水田での作業の後に手足がかゆみを伴う発疹が現れ、後に高熱、下痢、血便、血尿等の症状が現れるがやがて収まる。
 繰り返しているうちに、腹水がたまり腹部が大きく膨らみ、水腫脹満、はらっぱり等と呼ばれる症状が現れると、まず助からなかった。
 日本の各地に発生地は有ったが規模の大きかったのは
 ・甲府盆地の笛吹川、釜無川の周辺地域
 ・広島県深安郡神辺町の高屋川周辺の片山地区から岡山県の井原地区
 ・福岡県の筑後川と、佐賀県から筑後川に至る宝満川など筑後川支流の周辺地域
であった。
 幕末の頃の甲府地方のことわざに
 『水腫膨満、茶碗のかけら』
 『夏細りに寒やせ、たまに太れば膨満』
 水書膨満になると、細かく砕けた茶碗の様に元に戻らない、貧乏生活でやせ細っているが太るとすれば水腫膨満になった時だけ、と言った意味であった。

重度の日本住血吸虫症による腹水の溜まった状態

 いずれの地域でも、命に関わる病気と言うことで忌み嫌われ、その地域の人たちは病気の他に周辺地域の人たちの差別に苦しんだという。
 小学生の頃の校長先生が片山地区の近所の出身だった。
 校長先生の祖母が子供の頃、片山に遊びに行ったところ、家族から「あそこに行くと死ぬ様になる」と言われひどく叱られたと聞いたとの事であった。
 その頃は原因がわからず、死に直結する病気だっただけに本能から来る恐怖心による差別であり、無理からぬ事では有ったのかもしれないが、死への恐怖と周りからの差別とで苦しまなければならなかった、発生地の人々の心情を考えると心が痛む。

 日本住血吸虫症
 この病気の原因の日本住血吸虫は、宿主の便や尿と共に排出された日本住血吸虫の卵が、水中で孵化してミラシジウム幼虫となり、中間宿主のミヤイリ貝(別名カタヤマ貝)に侵入する。
 ミヤイリ貝の体内で成長したミラシジウム幼虫はスポロシスト幼生となり2世代を過ごし、セルカリアとなり、宿主のミヤイリ貝から水中に泳ぎ出る。
 このセルカリアが哺乳類の皮膚に接触すると、セルカリアが分泌したタンパク質分解酵素で皮膚を溶解して体内に侵入するが、このときに発生する発疹がセルカリア皮膚炎と呼ばれる。
 体内に侵入したセルカリアは肝臓の門脈付近に移動して成虫になり、成虫は雌雄が抱き合った状態で血流をさかのぼり腸間膜の血管で産卵する。
卵は血管を塞栓して周囲の粘膜組織を壊死させ、分泌するタンパク質分解酵素により消化管内に転がり出る。
 この時に現れる症状が高熱や下痢、血便等の症状であるが、そのうちに収まる。
 尿路でも同様の現象が起き、尿路住血吸虫症では、血尿がみられ、進行すると尿路の線維症や腎炎の原因となる。
 卵は静脈を通って肝臓の門脈に届き、肝臓の細胞を破壊するが、肝細胞は復元力が大きくすぐには障害が現れないが、そのうちに重度の肝硬変となり腹水が溜まるようになるが、この状態を水腫脹満と呼んでいた。
 この状態になれば死を迎えるのを待つだけであった。
日本住血吸虫症はヒトだけでなく、哺乳類なら感染発症をする人畜共通感染症であった。

 奇病「水腫膨満」
 甲斐国(現:山梨県)の一部地域では、原因不明の病気が蔓延していた。
 手足のかぶれ、下痢や高熱を繰り返し、ついにには水腫膨満となり亡くなってしまう。
 甲斐国で幕末文久年間の頃から次の様な謡曲が歌われたという。
 ♪~竜地、団子へ嫁に行くなら、棺桶を背負って行け
 ♪~中の割に嫁へ行くなら、買ってやるぞや経帷子に棺桶
  ♪~嫁にはいやよ野牛島は、能蔵池葭水飲むつらさよ
 流行地へ嫁ぐ娘の心情を嘆く内容であるが、流行地に娘を嫁には行かせるなという意味ではなかったかと思う。

能蔵池:山梨県南アルプス市

 能蔵池は湧水を人工的に堰き止めた溜め池で、どんな旱天時にも水涸れすることは無く、野牛島の田畑を潤したという。
 ♪~嫁にはいやよ野牛島は、能蔵池葭水飲むつらさよ
 ”能蔵池葭水飲むつらさよ” 漠然としてだが、水が原因では無いかと考えられていたのかもしれない

 片山記
 弘化4年(1847年)に備後福山藩の医師、藤井好直は安那郡川南村付近で発生してる奇病に関して、全国の同業に問い合わせのため記録を採っている。

 記録の概略は「備後の国,川南村(現在の広島県深安郡神辺町川南)に片山(別名,漆山)という小高い山がある。
 昔はこの辺は海であった。
 あるとき漆を積んだ船が大風のため片山の近くで転覆した。
 そのためか,この辺りの水田地帯に入ると皮膚が漆かぶれのようになり,下痢をして手足がやせ細り,顔色が黄色くなったり,さらに腹が膨れ上がってやがては死んでしまう病気が多発している。
 人だけではなく,牛も馬も同じように何十頭も死んでいる。
 何が原因か分からないので,全国の同業の医師に聞いて見たい」というものである。
 出典:日本獣医師会  日本住血吸虫病(片山病)の終息と広島県の取り組み 

 藤井好道は片山での奇病に関し、各地の同業に問い合わせするため記録を採った。
 これが片山記と呼ばれる文書で、日本住血吸虫症の臨床記録で原本は失われたが写本は残っている。
 この片山記が日本住血吸虫症の別名の、片山病の由来となっている。
 水中の漆は見当違いだが、水に目を付けたのは慧眼であったと言うべきであろう。

 突破口
 明治時代になり、原因の調査が行われたが不明のままであった。
 一般化したばかりの糞便検査を行い、糞便中に虫卵が見つかったため寄生虫症が疑われたが、原因は不明のままであった。
 山梨県東八代郡石和村の医師、吉岡順作はこの奇病に関心を持ち近代西洋医学的な究明を試ていた。
 笛吹川流域に患者の分布が集中していることや、水田での作業など水に係わる作業で発症するなど、水や河川の関わりを疑ったが原因は不明であった。
 1897年に吉岡医師の患者で、西山梨郡清田村(現:甲府市向町)在住の農婦、杉山なか(54歳)が自らの死後、献体を申し出た。
 なかは40歳を過ぎた頃から発症し地方病特有の病状が進み、50歳頃から特有の症状の腹水が溜まり始めた。
 死期を悟ったなかは、信頼していた主治医の吉岡医師に、自分の死後解剖し病気の原因を調べるよう依頼した。
 吉岡はなかと家族の希望を聞き取り文書にし、5月30日付けで県病院宛てに、「死体解剖音願」を親族の署名と共に提出した。
 死体解剖御願、読めません。 どなたか現代語訳を・・
 なかは6日後の6月5日に死亡し、良く6日に杉山家の菩提寺出る盛岩寺境内で、県病院長下平用彩の執刀で行われた。
 その結果、肥大した肝臓の内部や門脈に虫卵の塊を中心にした多数の結節が認められ、この地方病は新寄生虫によるものであろう事が発表され、日本住血吸虫の発見に役立った。
 解剖は当時はまだ物珍しいものであって、新聞に近隣の開業医も立会い、付近の農家では屋根に登って遠望したと書いてある。
 一農婦に過ぎなかった杉山なかの各問への理解もさることながら、一開業医の情熱にも心打たれる事で有った。
 「杉山なか紀徳碑」は甲府市向町の盛岩寺境内に、ひっそりと建っている。

甲府市、盛岩寺にひっそりと建っている。
国道20号線より

紀徳碑碑文。間違っていないはずですが、読めません。どなたか現代語訳を。

 解明に向けて
 中巨摩郡大鎌田村二日市場(現:甲府市大里町)で三神内科を開業していた三神三朗は、この解剖の当時24歳であった。
 三神内科のある大鎌田村は甲府盆地底部の中央に位置する地方病発生地の一つでもあり、三神内科では、老衰以外の患者の死因はほとんどがこの奇病だったという。
 杉山なかの肝臓には虫卵を中心とした結節が多数あり、同様の虫卵と結節は腸粘膜にも存在する事を聞いた三神は、自費で顕微鏡を購入、複数の患者の便中から大型の虫卵を見つけ、「山梨県医師会会報」に報告している。
 これらの結果により、山梨県医学会は「山梨県に於ける一種の肝脾肥大の原因に就て」という検討会を開いている。
 この検討会では、新種の寄生虫によるもの、従来からの肝ジストマによるものや、狭い地域で繰り返された婚姻による遺伝子疾患説まで出て、意見の一致はできなかった。

 日本住血吸虫の発見
 この検討会の参加者に、に岡山医学専門学校(現、岡山大学)の教授の桂田富士郎がいた。
 検討会で三神と意気投合した桂田は三神宅を訪れ、三神と共に患者の診察や便検査を行ってい、患者の便中から三神が発見していた虫卵を確認した。
 また、杉山なか等の病理標本の虫卵と同じであると確信した。
 1904年7月に桂田は改めて三神を訪ね、予め用意していた腹部の腫れた猫を、三神と共に肝臓の門脈を狙って解剖し、猫の門脈から32体の寄生虫を発見した。
 桂田は猫の肝臓と腸壁の虫卵が、杉山なか等の病理標本の虫卵と同じ事を確認、官報に報告すると共にドイツ語の論文を発表し、日本で初めて発見した血管内に生息する寄生虫と言うことで、日本住血吸虫と名付けた。
 桂田はこの論文のなかで、三神の協力に感謝する記述をしている。

三神医院の日本住血吸虫発見の記念碑

 感染経路の調査
 この奇病が寄生虫症で有ることが判明し、感染経路の調査が始まる。
それまでに発見された寄生虫は経口感染であったため、日本住血吸虫も経口感染が強く疑われた。
 経口感染説が広がり、病気の発生地では川や用水の生水を飲むことを禁止し、煮沸消毒を強制したが、新たな発症者が発生し続け、経口感染説が疑われ始めた。
 日本住血吸虫の発見者の桂田は岡山医学専門学校の長谷川恒治と、岡山県小田郡大江村西代の発生地の水田で、犬と猫で実験を行った。
 また、京都帝国大学医学部教授の藤浪鑑は、広島県の片山地区の水田で実験を行っている。
藤浪や桂田の実験でいずれも経皮感染を示す結果であった。
 京都帝国大学皮膚科の松浦有志太郎の実験は、発生地の水田に入るという悲壮な実験であった。
 右足は防護せず、左足はゴム製ゲートルで防護して水田を数時間歩き回ったところ、右足のみかゆみを伴う湿疹が発生し、1ヶ月ほど経過したところで便中に虫卵が混ざるようになり、経皮感染を確認する形となり、学者としての執念を感じさせる出来事であった。
 経皮感染することは判ったが、農民は水田での作業をせざるを得ず、解決まで長い道のりが始まることになった。

 セルカリアの発見
 経皮感染することは判明したが、新たな疑問が発生する。
 糞便から水中に放たれた虫卵がどの様に孵化し、どの様な形態で人間や動物に感染するか判らなかった。
 虫卵から孵化させた幼虫(ミラシジウム)のいる水中に動物の足を浸して経過を見たが、感染は確認出来なかった。
 孵化したは48時間以内に死滅してしまい、条件を変えた実験でも同じ事で有った。
 1911年に山梨地方病研究部の専任技官として就任した、東京帝国大学伝染病研究所の宮川米次は、発生地の一つ、中巨摩郡池田村を流れる貢川(くがわ)を実験地に選び実験を行った。
 非感染の動物を河川の水に浸し、実験動物の股の静脈からミラシジウムとは形態の異なる幼虫を発見した。
 この事から、虫卵から孵化した幼虫(ミラシジウム)と、皮膚から感染する幼虫(セルカリア)は異なっていて、ミラシジウムがセルカリアに至るには中間宿主が必要であることが判明した。
 水路などに広く分布する巻き貝のカワニナ等が疑われ実験が繰り返されたが立証できなかった。

 中間宿主の発見
 日本住血吸虫の中間宿主が発見されたのは1913年の事で有った。
 九州帝国大学の宮入慶之助と助手の鈴木稔が、佐賀県三養基郡基里村(現在の鳥栖市酒井東町)で見つけた体長8ミリほどの淡水産巻き貝であった。
 宮入は地元民が水につかると感染することから、有毒溝渠で見つけた巻き貝で実験を行い、巻き貝に侵入したミラシジウムがセルカリアとなり水中に出てくることを確認した。
 この結果は論文として発表され、この病気の研究者を驚愕させる事になるが、問題はこの貝の種が不明なことであった。
 この貝は新属新種として Katayama nosophra と命名されたが、後に中国産の巻貝 Oncomelania hupensisが同じ属のものであることが判明し、現在はOncomelania hupensis nosophoraとされている。
 宮入は、備後国の漢方医である藤井好直が江戸時代後期の1847年にこの疾患の症状を書き記した『片山記に敬意を表して、片山貝と呼んではどうかと提案したが、現在では宮入貝が広く呼ばれるようになっている。
 ただし、自治体などのウェブサイトなどでは、カタヤマ貝(別名ミヤイリ貝)としている例もある。
 この宮入貝の発見により、長らく人々を悩ませていた奇病のメカニズムが解明され、この病気の撲滅を目指すことになるが、撲滅までは長い年月がかかることになる。
 この宮入の業績を讃える『宮入先生学勲碑』が、鳥栖市曽根崎町の基里運動公園の片隅に建立されている。

宮入先生学勲碑:佐賀県鳥栖市

宮入先生学勲碑、碑文

 治療
 日本住血吸虫と中間宿主の発見は、病気の予防には非常に大きな成果であったが、すでの罹患した患者の治療とは結びつかなかった。
 山梨地方病研究部の専任技師として赴任していた宮川米次は、東京帝大伝染病研究所に帰任後、万有製薬との共同研究により1923年に、酒石酸アンチモンナトリウムによる駆虫薬、スチブナール実用化した。
 スチブナールは日本住血吸虫の卵巣機能を阻害して、産卵で生きなくするものであったが、静脈注射を繰り返す必要があり、アンチモンによる副作用が酷く、患者の肉体的負担が大きかったが、1970年代にドイツの製薬メーカーのバイエルが、経口駆虫薬のプラジカンテルを開発するまで唯一の治療薬であった。
 プラジカンテルは現在でも用いられ、WHO必須医薬品モデル・リストにリストアップされている。
 WHO必須医薬品モデル・リスト
 ビルトリシド錠600mg

 予防
 日本住血吸虫はセルカリアに汚染した水に接触することにより感染するが、水田耕作に従事する農民は感染のリスクが非常に高かった。
 子供達の川遊びによる感染は、正しく指導することにより防げると考えられたが、子供達に完全に理解させる事は困難で、この頃の農家は風呂や上水道が無いのは当たり前で、子供達の川遊びの禁止を徹底できなかった。
 宮入貝が日本住血吸虫の中間宿主であることが判り、調査により宮入貝の生息地と住血吸虫症は流行エリアが一致することにより、宮入貝の駆除が行われることになったが、非常に困難であった。
 宮入貝は水陸両生であり、十分な湿度があれば陸上でも生活することが出来、繁殖力も旺盛であった。
 ミランジウムに感染した宮入貝が陸上に上がった際に露などに触れた際、セルカリアが水滴中に出る可能性が有り、それに触れれば感染する可能性があった。
 「朝露踏んでも 地方病」
 大正末期から昭和初期の甲府地方のことわざである

 宮入貝の駆除
 宮入貝が中間宿主であると解明されてから、宮入貝の駆除が地方病の撲滅に結びつくという認識される様になった。
 宮入貝を焼殺する方法や、手作業で拾い集める事まで行われたが、繁殖力がきわめて強く、文字通り「焼け石に水」の状態であり、労力に見合った効果のある決定的な殺貝方法はなかなか見つけられなかっ
 日本住血吸虫の経皮感染の解明者であった京都帝国大学の藤浪鑑によって、石灰散布による駆除が考案された。
 生石灰を宮入貝の生息する水中に1~2%散布すると、宮入貝の体内に入った石灰が神経系統を麻痺させ、効率よく窒息死させる事が判明し、後に石灰窒素が用いられるようになった。
 広島県では早くから石灰の散布を行い実績を上げていて、山梨県や福岡県、佐賀県でも行われたが、広島県より流域面積が広く石灰散布は困難を極めた。
 第二次世界大戦後になり、殺貝剤が開発され広く用いられた。

 宮入慶之助の門下である九州大学の岡部浩洋と岩田繁男が、筑後川流域の同疾患流行地である佐賀県旭村で宮入貝の産卵孵化実験を行い、コンクリート用水路での産卵孵化率が極端に低いことなどが確認された。
 これは、水流速度が速いと宮入貝の卵が水草等に固定できずに流されて繁殖出来なくなるためで、水流速度が毎秒1mを超えると100%流出することが判った。
 コンクリート化することにより生息していた宮入貝を埋没させることが出来、コンクリート化することにより宮入貝が生息していても早期に発見できるようになる。
 水路のコンクリート化が宮入貝の駆除に有効な事が判明し、山梨県、佐賀県、福岡県の発生地で広く水路のコンクリート化が行われた。
 コンクリート化は宮入貝の生息数の多いところが優先されたため、生息数の調査時に他地域から宮入貝を集めて、密かに放流する事も有ったとの事で有る。

予防溝渠銘板:現、山梨県甲斐市
住宅地になっても整備された水路は残る:佐賀県鳥栖市

 殺貝剤の散布、火炎放射器や野焼きによる焼殺、埋没、水路のコンクリート化、湿地の埋め立て等の徹底の他、稲作から果樹等への転作や、農地から住宅地への転換等の農業形態や土地利用の転換も加わり、宮入貝の駆除が進んだ。

 広島県では1968年には新規感染者はゼロになり、1973年には宮入貝の絶滅が確認された。
 広島県は、終息に伴う式典は開催しなかったが、1991年に『日本住血吸虫病流行終息報告書』という冊子にまとめている。
 福岡・佐賀両県は1990年3月30日に、安全宣言記念式典が同時開催している。
 山梨県は1996年2月19日に日本住血吸虫症の終息宣言をしている。
 これにより、日本における日本住血吸虫症は収束することになった。

福岡県知事の挨拶

 あいさつ
 本日開催された筑後川流域宮入貝撲滅対策協議会において、筑後川流域における日本住血吸虫病の安全宣言が出されましたが、本件といたしましてもこれに賛同し、ここに改めて安全宣言を採択するものであります。
 ふり返りますと、筑後地方の風土病である日本住血吸虫病の安全宣言は、長い間この病気に悩まされてこられた地域住民の方々の悲願でありました。
 本日の安全宣言に至るまでの長い道程を思い起こしますとき、関係者の喜びは如何ばかりであろうかと推察され感慨深いものがあります。
 この病気は、地域住民から「ジストマ」と呼ばれ恐れられた病気でありますが、本病を撲滅するためには、これの中間宿主である宮入貝の完全撲滅を図るべく、関係機関において長い間種々の施策が講ぜられました。
 こうした努力の結果、本件の患者は昭和56年以降発生がなく、また、宮入貝も昭和58年5月を最後に発見されておりません。
 特に平成元年度は関係行政機関、地域住民の方々、及び久留米大学が一体となって、福岡・佐賀両県の有病地域及び隣接地を含む地域で宮入貝の大規模生息調査を実施しましたが、新たな貝の発見はありませんでした。
 炎暑、極寒を問わず今期を要する宮入貝調査、農繁期に個人の仕事を犠牲にしましてまでも共同で実施された殺貝作業、また多大の経費と労力を伴った河川の改修あるいは総延長420kmに及ぶ予防設備の整備等、関係各省、福岡・佐賀両県、地元関係市町村並びに住民の方々の御努力と、不幸にして日本住血吸虫病にかかられた方の治療や地域住民の健康診断等に尽力された久留米大学、関係地区医師会の方々に対して深く敬意を表するものであります。
 今後もこの筑後川がいつまでも安全で美しい川であり続けるとともに、筑後地方の憩いの場として地域の皆様に愛されるよう祈念して挨拶といたします。
 平成2年3月30日
   福岡県知事 奥 田 八 二 

  知事宣言文

 本日筑後川流域宮入貝撲滅対策協議会において筑後川流域における日本住血吸虫病安全宣言がなされたことを受け、ここに本県における日本住血吸虫病の安全を宣言いたします。
  平成2年3月30日
    佐賀県知事 神 月 熊 雄

 地方病の流行終息宣言

 宣言
 先般、山梨県地方病撲滅対策促進委員会から「本県における地方病は、現時点では既に流行は収束しており、安全だと考えられる。」との答申をいただいたことを受け、ここに本県における地方病(日本住血吸虫病)の流行が収束したことを宣言いたします。
  平成8年2月19日
   山梨県知事 天 野  建

 公衆衛生と環境保全の相反

 日本住血吸虫の予防のためにミヤイリガイの駆除が徹底されたが、別の視点から見ると環境破壊という見方も出来る。
 殺貝剤を散布すれば、ミヤイリガイ以外の水生生物も影響を受ける。
山梨県中巨摩郡昭和町の鎌田川のゲンジボタル発生地は1930年に国の天然記念物に指定されていたが、絶滅状態となった。

 山梨県中巨摩郡田富町(現、中央市)の釜無川左岸沿いには、臼井沼と呼ばれる約18ヘクタールの湿地帯があった。
   ラムサール条約の保護対象になる規模の湿地で、野鳥の生息地であり、渡り鳥の中継地としても知られていたが、埋め立てされてしまった。
 当時の田富町民が総決起大会を開き、「地方病撲滅のためには、ミヤイリガイ繁殖の温床となっている沼を埋め立てるしかない」と決議したためである。
 臼井沼周辺住民や町議らが中心となり当時の田富町議会でも審議が繰り返され、1976年3月、田富町は、山梨県議会議長宛に臼井沼埋立ての請願書を提出した。
 野鳥保護団体は「渡り鳥の中継地として貴重」と反論し、同年4月に「臼井沼の開発について考えましょう」と題した、埋立て反対趣旨を書いたパンフレットを作成し田富町全戸に配布した。
 対応を迫られた山梨県の出した結論は臼井沼の埋め立てであった。
埋め立てられた臼井沼は甲府リバーサイドタウンや山梨県流通センターになっている。

 福岡・佐賀県では筑後川の河川管理者である建設省九州地方建設局は、治水事業の一環として実施している河川整備に、日本住血吸虫症対策としてミヤイリガイ撲滅を併せて目的に組み入れることにした。
 河川敷を整地しコンクリート護岸を整備することで、ミヤイリガイの繁殖に適するススキ原や湿地帯を埋め立てることで、生息地を壊滅に追い込むことにあった。
 久留米市内の大規模築堤事業として「久留米市東櫛原大規模引堤事業」を計画。また水資源開発公団は、筑後川水系水資源開発基本計画の一環として筑後大堰の建設を計画した。
 これらの施策で湿地の埋め立てが徹底されて、福岡県久留米市の新福岡・佐賀両県は1990年に生息調査を行い、ミヤイリガイの撲滅を確認している。

 ミヤイリガイの撲滅は間違いなく環境破壊であったことには間違いないが、公衆衛生上やむを得ない対応であった。

 一方で、宮入貝が直接人間を害するものではなく、心を痛めながら駆除作業を行う人達もいたであろう。

 この地球上で生きる生物種の一つである「ミヤイリガイ」にとっては、日本住血吸虫の中間宿主であったがために、この筑後川流域での生息を否定され、さらには我々人間の手によって大規模かつ集中的な撲滅対策事業が実施されたことにより、当地域においては実質的にはほぼ「種として絶滅」に至らされている。
ミヤイリガイそのものは我々に何ら悪行をするわけではないが、日本住血吸虫の中間宿主としてその生活環で重要な役割を担っていたが為にである。
そのような意味から、本協議会が平成11 年度末で活動を終えるにあたり、筑後川流域において人為的に絶滅に至らされたミヤイリガイを供養したらとの話が上がった。
 昨今は、我が国に限らず地球上の自然環境の適正な保全や動植物については生態系の多様性の確保などが強く訴えられ、「種の保存」活動が各地で行われる中でのミヤイリガイの絶滅行為である。
 この「宮入貝供養碑」建立については、建設省筑後川工事事務所の多大な協力により建立の運びとなった。
 出典:筑後川流域宮入貝撲滅対策連絡協議会 「筑後川流域における日本住血吸虫病と宮入貝」

宮入貝慰霊碑は、筑後川流域で最後に2個だけ発見された、久留米市宮ノ陣町宮瀬地先の、新宝満川と思案橋川の合流地点近くに建っている。

宮入貝に罪は無いが、中間宿主であったが為に駆除された宮入貝の慰霊碑
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