飛騨川バス転落事故と高山線

 

 48年前の1968年8月18日午前2時11分頃、岐阜県加茂郡白川町地内の国道41号線で、観光バス2台が集中豪雨による土石流に流されて飛騨川に転落、死者104人を出す惨事となった。
 被害に遭った観光バスの乗客は、名古屋市で団地の主婦を対象に無料新聞を発刊していた株式会社奥様ジャーナルが主催した「乗鞍雲上ファミリーパーティ」の、北アルプス乗鞍岳観光の一行であった。
 この企画には名古屋市内の主婦とその家族を中心に730人が参加、バス15台(1号車より16号車、4号車は欠番)に分乗していた。

 計画では、夜9時30分に犬山市の成田山に集合し、乗鞍岳に向けて出発。バス内で睡眠をとり、翌日4時30分に山頂へ。ご来光をよう拝した後、夕方に名古屋に帰るという予定であった。
 当時の気象状況は、台風7号くずれの湿舌に、寒冷前線がゆっくりとした速さで南下。岐阜県中央部に達したのが17日夜20時ごろと推定されている。
 そのころ、郡上・益田・加茂郡内などに半径数キロといった小規模で発達した雷雲が、次々に発生し集中豪雨をもたらしたと考えられている。
 現場近くの白川町三川小学校観測所では、17日23時からの1時間に100ミリの雨量を記録している。
 出発直後より雨が降り出し、途中でツアーを断念し名古屋に引き上げる事になったが、白川口駅付近にある飛泉橋を通過した際に、白川口駅付近にある飛泉橋を通過したが、5号車の運転手が飛騨川の水位を警戒していた白川町消防団第二分団に呼び止められ、前方は溢水や落石の危険があるとして、運転見合わせを勧告される。
 しかし、通行規制がまだ実施されていないうえ、僚車の1号車から3号車がすでに橋を通過していたので追尾することとし、6号車・7号車もこれに続いた。
 一方、やや遅れて走ってきた8号車を先頭とする第2グループは、警告に素直に応じて白川口駅前広場で待機し、深夜の豪雨をやり過ごして無事に朝を迎えている。

 この豪雨のため道路わきの山肌がゆるみ、岩石・土砂が、高さ100メートル、幅30メートルにわたって数か所で崩た。
 そして、扇状形に国道に流れ出て、路上を乗り越え、ガードレールをへし曲げたうえ、飛騨川に落ちた。
 ダンプカーにして約250台分の土石流は急斜面を滑り落ち、5、6、7号車を直撃、7号車は1メートルほど横滑りしながらもガードレールに運良く抑えられたが、5号車と6号車は15メートル下の増水した飛騨川の水面にゆっくり転落していった。
 現場には、転落したバスのほかにバス・トラック・乗用車など約30台が、前後を土石に阻まれ立ち往生していた。
 これらの人は、比較的安全と考えられるところに車を移動し、バスは乗客を下車させて誘導するなどし、なんとか難を逃れることができた。
 事故の第一報は、転落から逃れたバスの運転手ら4人によってもたらされた。
 道路上にたい積した土砂を乗り越え、対岸の下山ダム事務所に急を知らせ、事務所から上麻生発電所を通じ地元の加茂警察署に連絡された。
 加茂警察署に連絡が入ったのは、事故発生後3時間29分後の午前5時40分ごろであった。
 救助活動は、地元白川町の派出所員3人と加茂警察署の4人が合流して始まった。
 その後加茂署隣接4署や県警機動員、自衛隊員、地元消防団員を中心にして救助活動が進められた。
 死者・行方不明104人におよぶこの事故の遺体捜索は、捜索範囲が岐阜・愛知・三重にまたがり、延々94キロメートルにおよぶ飛騨川・木曽川水系と伊勢湾一帯というきわめて広い範囲であったこと、極度に増水した濁流であったことなどから困難をきわめた。

 その頃、飛騨川の対岸を走る国鉄高山線の沿線でも、当然のことながら豪雨となっていた。
 この事故の現場から近い高山線の白川口駅の駅長は、経験のない程の豪雨に不安を感じ、豪雨の中を到着した岐阜発、飛騨金山行き845列車を抑止し、列車が遅れており苛立つ乗客に詰め寄られても頑として拒んだとされる。
 知人の爺様がこの列車に乗っていたそうでこの時の話を聞いた事があるが、白川口に到着した時にはすでに遅延が発生していたうえに、終着駅の飛騨金山まで二駅離れただけの白川口での運転見合わせに怒った一部の乗客が駅長室に乗り込み、険悪な雰囲気だったらしい。
 845列車の抑止のためこの区間は運転見合わせになったわけだが、白川口~上麻生間で土砂流入や道床流出が起きていて、運転を継続していたら高山発、美濃太田行きの238Dが被災していた可能性が高かった。
 この抑止は白川口駅長の英断といわれているが、実際は当時の名古屋鉄道管理局の定めた、降雨に対する運転規制基準にもとづいて実施されていたらしい。
鉄道防災技術の進化と課題/2010 予防時報241
 もちろん最終的に列車の抑止の判断をしたのは駅長だが、運転規制基準という規則上の裏付けがあればこそ、乗客に詰め寄られても断固として拒否しやすかったであろう。
 この事は災害が発生した場合に、現実的で実行可能なマニュアルや規則が非常に重要という事を表している。
 東日本大震災の際に、地震対策のマニュアルが有ったにもかかわらず、園長室だか校長室の書棚に並べて有っただけで誰も見ていなかったという例があったが、それでは全く意味が無い。
 マニュアル等を作成したとしても想定外の事が起きる可能性があるが、それは新たなデータとして積み上げて行けば良い事。
 防災対策は様々な事例を積み上げていってこそより進化するのではないかと思う。

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